引用していいものなのかよく分からないのですが、鈴木絢音さんの755に次のような文章がありました。
「入院して、通院して、制限の中でも楽しく過ごした記憶があるし、その中で出会った人もたくさんいるし、得たものもたくさんあるけれど、自由に過ごせていたら今の自分がどれだけ違うんだろうとか時々考えちゃうこともある。/でも最近気づいたことは、起きてどこも痛くなくて調子が良いことが幸せだってこと。/明日も元気だったらいいなぁ。」(2018年8月11日鈴木絢音(乃木坂46)755より)
私は長期の入院の経験はありませんが、30歳以降持病と付き合い続けている関係で、絢音さんの発言には同様の感想を持っています。
元気ならばもっともっとできるのに、病気のために100%の力を出せないストレスを感じながら、一方で病気を知らない健康な人からは単なるさぼりとして見られることもあり、それがまた新たなストレスになるのです。
でもしっかり理解できている訳ではないですが、人生とは自分が思い描く将来の上昇軌道から、いつも少しずつ速度を失って下側の軌道を進むことを余儀なくされるということの連続ではないでしょうか。だからといって失われる分を差し引いた下側の軌道を初めから想定していても、結局はそれより更に下の軌道を進むことになるように思います。
何も期待せず、ただ漫然と毎日を過ごして成長もせず、死に向かって確実に進んでいく程の勇気があれば悟りの境地に達せるのでしょうが、私には無理そうです。
6th Year Birthday Liveのところでも書きましたが、人間の将来の命の保証はそれ程確かなものではなく、特に年齢が高くなる程、死までの残された期間の期待値が確実に短くなるので、悟りを開くための努力をする方が知恵があるということになりそうです。ただそこは凡人には到底無理なところで、あがきながら死んでいくために毎日を必死に生きるしか私には選択肢がありません。
絢音さんの、少なくとも外見から受けるどこか達観したようなご様子が大病の経験から来ているのだとすれば、非選抜であった頃のいつかに発言されていた「私は私のペースで行くから、見守っていてほしい」というような内容もなるほどなと腑に落ちるところです。
彼女は私より大人だということでしょうか。

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