昨日(2019年6月24日)更新された北川悠理さんのブログの今日のコメントに下記のような書き込みがありました。
「私が最近思う、美しいものは、女の子の黒髪とかカラコンをしてない瞳です。/ありのまま、何も着飾らずに生まれたままで十分に綺麗だと思うんだ〜〜。」
おそらくコメントした人は若い女性ではないかと思われるのですが、おじさんの希望いや意見とまったく同じですね。
私が昔から思っていることの一つに「化粧は土人を目指す」というのがあります。少し言葉が微妙ですが、差別的な意味は微塵もないことを理解していただいた上で、この言葉は民族的な伝統に従って特徴的な身体装飾を施した人々を指していると思ってください。例えば詳しくはないのですが一部のそのような人たちの装飾・化粧方法として対照的な色合いを用いて体を塗り分けたり、鼻輪や直線状の棒を身体のどこかに通したりすることがありますが、今、世界のどこであっても「化粧」の究極の姿はそのような装飾として最終的に結実するというのが私の説です。
実際、この日本でも鼻ピアスは時々見かけますし、少し前の赤いチークや今流行の明るめの茶髪や、白い化粧に真っ赤なルージュなどというのは、上の説を証明するに足る十分な事実だと思います。
ただ、この土人における化粧ないし装飾というのは、その種族なり民族に伝統的かつ呪術的に根付いたごく少人数の社会における習慣の内部においてのみ正当化されるものであり、化粧ないし装飾が呪術的要素として裏づけされない場合は単なる馬鹿の猿真似以上の意味はないということです。すなわち流行しているからというだけでは、それが美しさの一般的な基準の十分条件足り得ないのです。多くの人数による構成される社会においては呪術的習慣が身に付いているのは年齢の高い層であることが多く、美の基準としてそのような装飾が捉えられるためにはこの層に一般的に理解されねばならないと思うのです。
それを前提とした上で、茶髪が呪術的要素に裏づけられた美の基準としての地位を確保しているかを考えると、多くの日本人というのは、生まれながらにして優しい風貌と美しい黒髪と細やかな心配りの気持ちを持っていると考える方が今現在でもより一般的なのではないかと私は感じています。それをスポイルするものを流行させようとするということは、畢竟本来の日本の美的要素を決定する権利のない者が、おそらくこの美しい日本人を貶めるために慎重かつ緻密に張り巡らした策略だと思うのです。まんまとその罠に嵌っていく日本人が多くて私はこのところ心穏やかではありません。
悠理さんや、ありがたいコメントをしてくれた(おそらくは)お嬢さんの感覚が平均的かつ典型的なものとなり、日本人の正統な美的感覚に適合したものとなりますように。

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